こんにちは!トムです。
お釈迦様の教えといえばどういう事を思い浮かべますか?
煩悩と呼ばれる金銭欲や物欲を滅却する印象が強いと想います。
真の幸せの為にはお金は必要ないという事も思い浮かぶかもしれません。
日本マインドの根幹に大きく関わってきた仏教もお金儲けは卑しい事と考える印象がありますが、これは真実なのでしょうか?
今回は仏教、特にお釈迦様の考えとお金の関わりについて少し考察してみたいと思います。
守銭奴vs清貧
割と昔から耳に馴染みのある言葉でやたらお金にこだわる人のことを「守銭奴」「金の亡者」と呼びますね。
一方、お金に全くこだわらない人を「清貧の人」と呼んだりします。
つまりお金を持っている人は心が汚く、貧しくとも清らかでいる事が善とする前提がそこにあります。
これは江戸時代からの影響が大きく関わっています。
金儲けは卑しい職業で、士農工商の底辺になった商人は金儲けをする人なので身分は最も低く設定されてしまいました。
日本人にお金の勉強が足りないといわれる原因の根本は歴史的な背景が根強くあるようです。
だから清貧な人を美徳とされる国民性が形成されて行きました。
五欲
食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲。
お金があればここに挙げた基本的な欲を満足できます。
それを一般的に幸せと呼んでいます。
しかし、人間は環境に順応する生き物ですので、すぐにそれがスタンダードになり幸福感は麻痺してしまいます。
そしてもっと上を目指し、今より貧しかった頃よりも更に多くの苦を背負っている自分に気づきます。
終いには、自分よりも随分と貧しい人々が幸せそうに見えたり・・・
お釈迦様のお金に関する考え
お金があっても真の幸せに到達できない理由。
それは火宅無常の世界に生きているからなんですね。
つまり、安定的で快適な暮らしを失う不安。
お金に目がくらみ、本来の自分のやりたかったこともズレてしまう。
尊となく、卑となく、貧となく、富となく、小長男女ともに銭財を憂う
つまり、お金のことを心配していない人はいないということです。
あればあるだけ心配やストレスも増えます。
しかし、お金そのものが悪いのではなく、お金はいわゆるカルマです。
そのカルマの化身ともいえるお金がなぜ人々を苦しめる現況になってしまうのか科学刷ることに意味があります。
お金さえあれば全てが叶うと思われる世の中ですが、お金が目的にすり替わるというのが人の世です。
仏教の教えの中のお金はひとえに仏法を伝える手段として使う浄財と呼ばれるものです。
つまり自分の為に使うとたちまち欲に負けてしまいます。
人間が生まれた瞬間から負う四苦(生老病死)から開放されるには、他者を大切にするというスタンスが基本になります。
一般的に言えば他者とは他人、つまり自分以外の人をことを示す言葉ですが、ここでは人間のみならず自分を取り巻く全ての事を意味します。
そういう他者への尊敬や感謝を前提として自分の幸福が維持できるという流れです。
自分が今生きて存在できた理由は、自分を取り巻く環境が生かしてくれていると考えるとすっと肚まで落ちてきます。
左の掌に自分を乗せ、右の掌に他者を乗せ合唱。