こんにちは。トムです!
とかく、現代社会は「生きづらい」という言われ方をしますね。
それはなぜでしょうか?
様々な原因が考えられますが、それは全て人間関係の摩擦だと言われています。
特に、インターネットによる情報の氾濫とSNSによる不特定多数の人との接点により、会った事もない他人との交流の幅がぐんと広がった分、そこから生まれる摩擦も膨大なものとなっています。
そういう社会的背景もあり、最近では悩める現代人をテーマにした哲学や心理学の分野が非常に脚光を浴びています。
たとえば、全世界で500万部以上売れた「嫌われる勇気」という本が話題となっていますが、全世界と言っても特に日本と韓国で爆売れしているようです。
つまり「嫌われたくない」と思って生きてるけどそれが生き辛さを生んでいるという事は皆さん分かっているですね。
だからいっそ嫌われる勇気が欲しいと密かに願っているところへこのタイトルが人々の心を鷲掴みにしたという流れでしょうか。
日本の場合、特に村社会の(島国根性)と呼ばれ、後ろ指を指されることをい極端に嫌います。
他人の評価が幸福度を決めると言っても過言ではありません。
つまり、他人を満足させることが自分の満足に繋がるというメカニズムなんですね。
皆が密かに望んでいるこの「嫌われる勇気」ですが、心理学の三大巨匠の1人「アルフレッド・アドラー」の考えがベースになっています。
しかし、タイトルは魅力的なんですが、実際に読んでみると意味不明・・・
2000を超えるAmazonの書評の中でも目立っています。
これはあくまでトム個人的な意見ですが、そもそもアドラーがフロイトの理論に対抗しようとる意図により作られた少々強引な理論展開に飲み込みにくさの原因があるように感じます。
人間の精神のメカニズムを真逆に捉えるフロイトとアドラーですが、仏教的な考えにおいてはどちらも正解!
そこで今回は嫌われる勇気という人気キーワードを使い 「ブッダvsフロイト&アドラー」という心理学対決を展開してみたいと思います。
僧侶のつぶやき
今流行りのアドラー心理学
フロイトの逆説を説いているが、仏教的にはどちらも正解。今、この瞬間に生きる事を目指すと同時に、因果という関係も正に仏教の根幹である。— TomFu (@TomFu83622412) May 31, 2021
フロイトvsアドラー
まず、フロイトの考えは原因論とカテゴライズされ、現在起こってることは全て過去に起こった原因によって引き起こされているとみなす事が主軸となります。
引きこもりは過去のイジメや虐待がトラウマとなりそういう状態を引き起こしているという捉え方ですね。
一方アドラーは目的論と呼ばれ、現在起こっていることはある目的のために引き起こされていると考えるものであると考えます。
単に外に出たくないという怠惰な目的を正当化する為に、過去にあったイジメを言い訳にしていると説きます。
アドラーの目的論は原因論を説くフロイトの考え方と真っ向から対立しようとします。
そこはベストセラー本では全く触れていないのですが、後発のアドラーはフロイトの考えが気に食わないという発端が見え隠れします。
フロイトの理論はすべては過去の出来事と結びついているつまり人生は過去から逃れられないというものなんですね。
アドラーの理論は現在の目的によって都合のいいように過去が解釈され、現在によって過去の意義が変わってくるというものです。
そして、現在を変えることによって過去の価値さえ変えられると説きます。
ここが、フロイトの原因論に対しアドラーの目的論がアドバンテージを得るポイントではないでしょうか?
つまり現在の目的が認識できて現在の状況が改善されれば、過去の呪縛から逃れることが出来るという明るい希望を与えます。
フロイトの考え方は全てを過去のせいにできる、つまりこの苦しみは自分のせいじゃなくて過去のせいだと言ってしまえば自己否定感が消え急に気分が軽くなります。
しかしそれはアドラーに言わせれば単なる気休め。
過去のせいにして現状が変えられなければ意味がないではないか?
自己満足だけで終わらせようとするフロイト理論に対し激しくメスを入れます。
結局「フロイト VS アドラー」、どっちが正しいのか?という切り口で理論が展開されてしまいますが、仏教の教えでは両方とも正解なんです。
アリストテレス哲学からの引用で、「キネーシス」と「エネルゲイア」という言葉がありますが、フロイトは前者でアドラーは後者に相当します。
フロイトは過去から現在に延びるベクトルをキーネーシス的に捉え、アドラーは逆に現在が変わることで過去の定義も連動して変わるというエネルゲイアを基本とする考えです。
アドラーが明るい未来を提案する際に「今この瞬間というのは 自由に変えることができ過去の意味づけも変わるだからこの瞬間から自由だ」と主張します。
過去から伸びるベクトルの断絶こそが目的論の究極の理念というわけです。
仏教徒の接点
アドラー心理学と仏教との接点は「今を生きる」という部分です。
もう少し言えば「今ここで本当の幸せになる」教えです。
私たちは過ぎたことをいつまでも悔やみ、未来は取り越し苦労をしつつモヤモヤしています。
つまり「今」に生きるのが苦手です。
不安材料を積極的に取り込み勝手に憂鬱になりがちですが、そうなるかならないかは今からの決断と行動次第です。
過去を追わず、未来に臆せず、大切なのは「今」だ、今が変われば過去の定義さえ変わります。
ここは正にアドラーと同じ考えですね。
しかし、同時に仏教はフロイトと同じ方向性でも人生を見ています。
因果の道理、つまり結果には必ず原因があると言う考え方です。
よく何か悪いことがあるとバチが当たったって言いますよねまさにあれがそうですね。
「まいた種は必ず生える。まかぬ種は絶対生えぬ」
トマトきゅうりみかん果実が違うのは、蒔いた種が違えば実る果実も違います。
人生も同じで十人十色。
皆さん行為(種まき)が違いますから、一人一人違った運命が生じるというものです。
因果応報(いんがおうほう)
自業自得とも表現され、悪い事をすればいつかバチが当たる。つまり原因に応じた結果が報いるということ。撒いた種に応じた結果を生むということは過去と未来を結ぶキネーシス的な教えが仏教の根幹。 https://t.co/g1dzN29b4y— TomFu (@TomFu83622412) May 31, 2021
では過去に戻ることができなければ既に終わった種まきによって未来永劫運命が縛られるのでしょうか?
仏教的にはこれから蒔く種によって未来が変わると言う救いを説きます。
「因果経」によれば「未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」と説かれています。
今日は人生最長の日であり、今日の行いが未来を作ります。
そして、終わり良ければ全て良し。
過去は変わらなくても、最終的に輝くことで過去の持つ価値や意義は変わります。
辛い出来事や悲しい記憶も現在次第では大事な肥やしとなるわけですね。
自分の人生を大事にするためにも、今から先の人生を大いに輝かせましょう。
さて、最後にまとめておきたいと思いますが、フロイトとアドラー、どちらも正しい。
過去による影響により現実があると一旦受け止め、そこから現在を独立改善するためにアドラー的に動き出す。
結局は人間を苦しみから解放されるためにどちらの立場でも適宜取り入れることが望ましいと思います。